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も消えるばかりに思つたのは、申し上げるまでもございません。中でもこの私なぞは、大殿様にも二十年來御奉公申して居りましたが、それでさへ、あのやうな悽じい見物(みもの)に出遇つた事は、ついぞ又となかつた位でございます。
しかし、その御話を致しますには、予め先づ、あの地獄変の屏風を描きました、良秀(よしひで)と申す畫師の事を申し上げて置く必要がございませう。
二
良秀と申しましたら、或は唯今でも猶、あの男の事を覚えていらつしやる方がございませう。その頃劍�Pをとりましては、良秀の右に出るものは一人もあるまいと申された位、高名な劍龓煠扦搐釘い蓼埂¥ⅳ螘rの事がございました時には、彼是もう五十の阪(さか)に、手がとゞいて居りましたらうか。見た所は唯、背の低い、骨と皮ばかりに痩せた、意地の悪さうな老人でございました。それが大殿様の御邸へ參ります時には、よく丁字染(ちやうじぞめ)の狩衣(かりぎぬ)に揉烏帽子(もみゑぼし)をかけて居りましたが、人がらは至つて卑しい方で、何故か年よりらしくもなく、唇の目立つて赤いのが、その上に又気味の悪い、如何にも獣めいた心もちを起させたものでございます。中にはあれは畫筆を舐(な)めるので紅がつくのだなどゝ申した人も居りましたが、どう雲ふものでございませうか。尤もそれより口の悪い誰彼は、良秀の立居(たちゐ)振舞(ふるまひ)が猿のやうだとか申しまして、猿秀と雲ふ諢名(あだな)までつけた事がございました。
いや猿秀と申せば、かやうな御話もございます。その頃大殿様の御邸には、十五になる良秀の一人娘が、小女房(こねうばう)に上つて居りましたが、これは又生みの親には似もつかない、愛嬌のある娘(こ)でございました。その上早く女親に別れましたせゐか、思ひやりの深い、年よりはませた、悧巧な生れつきで、年の若いのにも似ず、何かとよく気がつくものでございますから、御臺様(みだいさま)を始め外の女房たちにも、可愛がられて居たやうでございます。
すると何かの折に、丹波の國から人馴れた猿を一匹、獻上したものがございまして、それに丁度悪戱盛(いたづらさか)りの若殿様が、良秀と雲ふ名を御つけになりました。唯でさへその猿の容子が可笑(をか)しい所へ、かやうな名がついたのでございますから、御邸中誰一人笑はないものはございません。それも笑ふばかりならよろしうございますが、面白半分に皆のものが、やれ御庭の松に上つたの、やれ曹司(ざうし)の畳をよごしたのと、その度毎に、良秀々々と呼び立てゝは、兎に角いぢめたがるのでございます。
所が或日の事、前に申しました良秀の娘が、御文を結んだ寒紅梅の枝を持つて、長い御廊下を通りかゝりますと、遠くの遣戸(やりど)の向うから、例の小猿の良秀が、大方足でも挫(くじ)いたのでございませう、何時ものやうに柱へ駆け上る元気もなく、跛(びつこ)を引き/\、一散に、逃げて參るのでございます。しかもその後からは楚(すばえ)をふり上げた若殿様が「柑子(かうじ)盜人(ぬすびと)め、待て。待て。」と仰有(おつしや)りながら、追ひかけていらつしやるのではございませんか。良秀の娘はこれを見ますと、ちよいとの間ためらつたやうでございますが、丁度その時逃げて來た猿が、袴の裾にすがりながら、哀れな聲を出して啼き立てました――と、急に可哀さうだと思ふ心が、抑へ切れなくなつたのでございませう。片手に梅の枝をかざした儘、片手に紫匂(むらさきにほひ)の袿(うちぎ)の袖を軽さうにはらりと開きま